パルコって渋谷にもあるんだ
池袋のパルコって、駅の近くにあるじゃないですか?
だからパルコ=池袋だったわけですよ。
開演三十分前に到着して、さぁてパルコ劇場は何階かな〜って思って検索したら、渋谷って出てきて、
ハッ?!えっ?!ってなりましたよね。
まあ、ちゃんと調べてなかった自分が悪すぎなんですけどね。
だから大急ぎで駅のホームに行ったけど、見ず知らずのパルコへ駅から徒歩で行くよりも、タクちゃんで連れてってもろた方が絶対早い!!と思って、
大急ぎで駅のホームから飛び出して、タクちゃんに乗りましたよね。
タクちゃん、ありがとう。
結局、開演十分後くらいに到着した気がする。
色んな方にごめんなさい。
そんな感じでパンフレットも読まずに始まったバードランド。
ボヘミアンラプソディーの救えないバージョンかな〜とか思ってたら、こっちの方がもっと拗らせていた!
フレディ〜さんが可愛く思えるほどであった。
ポールさんは確かにクソ野郎なんだけど、全然嫌いになれないタイプとゆーか、
んま〜身近にいたらウザくて二度と関わりたくないタイプなんやけど、第三者目線から見ると
なんだか苦しくて可哀想…みたいなみじめな感じで見てしまう。
うえぴーはずっと出っ放しで、いわゆる大衆の目に晒されているのだが、
それがまさに「消費されるポール」を体現しているようで痛々しくて、
たのむ!!いっぺん引っ込んで休んでくれ!!と何度も思った。笑
二時間くらいの中でポリポリと髪をかいたり、ため息をつくことも許されず
ずうっと演じ続けなければならない感じ
それは、コンサートでもそうなんだけど、今回は「そうして消費されていくポール」がテーマだったので
ポールさんがラリっていく度に、ごめんな!!なんか見ててごめんな!!ってめちゃめちゃ思った。
双眼鏡で見る必要はないけど双眼鏡で見れないわね。
カメラで写してたりしたけど、見れないわね。。
バードランドってバンド名じゃなかったんだ〜とかフワッフワしたことはどぉ〜でもよくて、
とにかくポールさんのぐちゃぐちゃした、沼でもない泥でもない、水でもない土でもない、得体のしれないどこかへ沈んでいくような、浮くような、なんともいえないラリ方が心配。笑
ジョニーやジェニーや、あらゆるひとのあらゆる感情がポールに突き刺さっていって、
ポールは確かにハリネズミのように周りをトゲトゲ痛めつけるけど、
ポールにとってはそのポールが何人もいるくらい痛みを受けているんじゃないか?とか
思ったりした。
だけどね〜〜あーゆーひと難しいよね。
パンフレットを読んでいて、わしは長い間思っていたけど口にしちゃいけないと思ってたけど、やっぱりみんなそう思うよね〜!と思ったことがある。
アーティストは大抵クズな部分があるとか。
苦しみの中からしかいい作品は生まれないとか。
俳優や音楽家とか、アニメーターとか、映画監督とか、美術家、スポーツマンとかが、不倫してた、クスリやってた、自己中心的で人間的に問題ありだとしても、その作品は魅力的だったりパフォーマンスも素晴らしかったりする。己の欲に忠実すぎるやつもあるけど。我々大衆は、その作品からなにかを感じで、何かを汲み取って、それを己の糧にして、明日からの日々の行動に反映される。そうしたら、たとえその人がどうであれ、なにをしたって、関係ないんじゃないか?その人と関わることのない我々にはどうだっていいことなんじゃないか?不倫しようがクスリをしようが、別にいいんじゃないか?それに、その人がそういう人生を歩んできたからこそ生まれた作品なら、その人生だって、過ごした環境だって有りなんじゃないか?と、思ったりする。
例えば
過去、壮絶な経験を経て、立ち直ったという音楽家がいる。
その音楽家が作る音楽がめちゃ胸を打つ音楽で、誰かの人生を変えたんなら、
その壮絶な経験は、必要だったんじゃないかと思ったりする。
そして、そのひとそのものが一種の作品なんじゃないかと思ったりする。
いじめはなくならない。
貧困もなくならない。
戦争も、なくならない。
なぜか?
不謹慎でスピリチュアルなことは、書かないことにする。
パンフレットではポールはこのあとどうなったのか?というコラム?があったが
わしは何となくそこは考える気にはなれない
あの場面で「バードランド」とゆー戯曲は終了して、
登場人物全てがいなくなってしまった気がするから
いや〜
それにしてもなかなか苦しい舞台だったな〜
もう目を逸らしたくなったとき、
うえぴーは足が長いなぁ〜
顔もいけめんだなぁ〜
安達さん、セクシー可愛いだな〜
玉置さん、癒されるな〜
とか、思ってました。
あと、次から会場はちゃんと調べることにする。